傍に居るなら、どうか返事を


※成×霧あります。


「成歩堂。」
 名前だけ呼ばれ、ロシア料理店の、こう言っては悪いが余り綺麗とは言えないテーブルの上にファイルが乗せられた。ピンク色の表紙に番号が記されたシールが貼ってある。一見しただけでは内容を想像する事も出来ない代物。
 成歩堂は注いでいた紫色の液体を、瓶を心持ち上げる事で堰き止めてから顔を上げる。見慣れた、しかし何度見てもこの店にそぐわない美貌の持ち主が、向かい側に腰掛けるところだった。
 青いスーツにリボン帯。綺麗な髪はゆるりとカーブを描いて肩に堕ちている。上品な装いに劣る事のない美貌が成歩堂を見つめていた。薄く閉じられた瞳は僅かに目尻が上がっていて宥和な印象は産み出さない。それでも、顔全体を覆う笑みは、見惚れるほどの完璧さを保っていた。
 すっと、ファイルの中心が指さされると、シングルフローラルな香りが鼻を擽る。男なのに、薔薇の香りが似合うとはどういう冗談だろう。

「これは、貴方の仕業ですね。」

「ああ?」
 指先に示された汚れと、何かに強く押し付けられた歪み。確かに見覚えのある代物だったので、成歩堂はにこりと笑った。
「牙琉先生は流石に目ざといね。」
「備品を汚さない下さいとあれほど言っているでしょう。」
 眼鏡を指で押し上げながら牙琉霧人は、成歩堂に冷ややかな視線を送る。常に弧を描き微笑んでいるように見える薄い唇が、内心を反映している訳ではない事を、成歩堂は知っている。
 例えば、今のように。
「先生が遅いから退屈だったんだよ。涎を付けなかっただけ勘弁してくれ。親友だろう?」
 拝むように両手を合わせてから、動作を再開した成歩堂に、霧人は剣呑な視線を送り続ける。再び眼鏡に指を掛けた事で、成歩堂はおやと気付いた。
 滅多に見せない、躊躇いを含んだ仕草だ。ファイルの汚れ以外に自分に問いたい事があるらしいと気付き、成歩堂はわざと食事に夢中のふりをした。
 実のところはそんなにお腹は空いていない。可愛い子犬にしこたま奢って貰ったのだ。みぬきへのお土産まで注文させられた悔しそうな顔を思い出すと、自然に顔が緩んでいく。

「愚弟が来たのではありませんか?」

 何か言って来るだろうとは思っていた。しかし、この台詞は成歩堂の想像を超えていて、スプーンを持つ手が止まる。
「…。」
 見上げた霧人の眼に微かな後悔の色を孕んでいた事が、困惑を助長した。
 この男は弟が資料を見に来るだろう事をわかっていて、家を空けたのかと思い立つと、後は芋蔓式に答えに辿りつく。
 たとえ留守にしていても、この世の中には『携帯』という便利な代物が存在する。あの時、自分と対峙して冷静さを失ってしまった響也だったが、そうでなければ兄に連絡を取り付けたに違いない。
 わざわざ弟の頼みで戻って来た兄の株は格段上昇するのだろう。そんな演出までして、弟の目を自分に向けていたかったのだ気付き、成歩堂の心情には呆れが混じる。なんとも彎曲したブラコンだ。いや、それとはひと味違う感情かもしれない。執着という二文字は成歩堂の中で目の前の弁護士に相応しいように思える。
「さぁ、知らないな。」
 興味なさそうに返してやれば、一応納得はしたのだろう。話題を振り出しに戻してきた。ファイルを汚した件について。それはそれで煩わしくて、成歩堂は、この料理店に於ける、もうひとつの職場に霧人を連れ込んだ。小汚い部屋を綺麗な弁護士先生が毛嫌いしているのを承知の上で、テーブルを背に組み敷く。
「どういうつもりですか、成歩堂。」
「いや、僕はとっても悪い事をしたみたいだったから、反省して身体で支払おうと思って。」
 にやりと嗤いリボン帯に指を絡めてやれば、初めて表情が崩れ眉を潜める。何度も見た表情だが、整った顔が歪む瞬間というのは目を奪われる。
「…この場合、支払うのは私の方になると思うのですが?」
 組み敷かれた霧人の、それは正統な指摘だったが、成歩堂は釦を外す指を止めることはない。陶磁器を思わせる肌を露出させれば、躊躇いなく唇を寄せる。
 肩に置かれた手が抵抗の兆しを見せないのを良いことに成歩堂は行為を先へと進めていった。高潔な先生も快楽は嫌いではないのだ。
「細かい事は気にしなさんな。」
 肌を吸う事でさらに濃くなる香りは、絡め取るように成歩堂を包んだが、相反する匂いが記憶の奥から蘇り、鼻先を擽った。
 
 庇ってあげたんだから…いいよねぇ。

 成歩堂は尤もらしい言い訳を頭に浮かべ、くつりと嗤った。


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